僕はこれを情熱と呼ぶ

東京から高知、東南アジアを旅して妻と娘を愛するデジタルマーケターの人生です

変哲のない退屈な日々を過ごすのに、東京はもってこい

朝6時、起床。高知での生活で、嫌でも目がさめるようになった。

しかし、起きても何もない。

朝日の爽やかさはぬるい排気ガスに包まれ、

ビルの照り返しが暴力的に襲いかかってくる。

夜に冷えた空気が朝日で温められるようなことはなく、

湿気と熱気は、いつも憮然とした門番のように東京の至るところでこちらをじっと見ている。

 

9時頃に家を出る。いつも景色が変わらない。

同じ電車に乗る女の子は服装までもが昨日と一緒だった。

昨日と違っていたのは、イヤホンから漏れていたのが

ヴァンヘイレンと言うハードロックバンドで、

その女の子はアイスランドの人たちがメタルロックにハマるのも多少理解できると言う風な顔を装っていた。

 

街に出ると、毎日、建物は変わらずそこにあった。

見る景色といえば季節感のないビルぐらいで、季節を感じるのは、もはや道端に生えている雑草ぐらいなものだ。

 

ここまで刺激のない街ってあるだろうか。

致命的なのは、道行く人々の表情が、なんというか、生きていなかった。

有楽町駅の綺麗なビジネス街を早歩きする人たちと、駅ナカのゲームセンターでスーツ着て遊んでる人たちがあまり変わらないように思えた。

こんな中で個人ブログのネタを探そうなんて冗談じゃない。何の変哲もない。

そびえ立つけやきの木を見て、一本の幹で伸びるより、

枝葉が多い方が樹は太くなるんだな、と思う人が少しでもいてくれるだろうか。

私が色んな仕事をする理由を、少しでも感じてくれるだろうか。

 

ないない主張と言ってしまえばそれまでだが、やはり自然と繋がっているのは重要だと思う。

自然の中には、同じ瞬間は二度となく、次の瞬間には変化している。

東京の方が時の流れが速いが、自然の中での変化の方が圧倒的に速い。

思うに、この変化の連続が、感動したり創造したりする源泉なのだと思う。

 

そういえば、学生時代に勉強していた発達心理学の本で、興味深い記述があった。

ジーニアス(天才)と呼ばれる人たち300人の生い立ちを研究した本だ。

 

「福祉」で提供する教育とは、学校で学習するような学問的知識などではなく、創造性、人間として生きる力を育むことを指す。一緒に、自然環境に子どもが触れ、創造性が育まれることに関しては、イディス・コップの研究が詳しい。

彼女の研究によると、非凡な才能(ジーニアス)とは、生来のものではなく個人が獲得するものであり、自然の「解釈」を意味の上では未知なものにまで広げて行うことであるしている。イディス・コップは、約300人のジーニアスと呼ばれた人たちを研究し、彼らは想像力の力と衝動を蘇らせるために源泉として戻っていくのは、2つとない形の、そして動的な自然との関係を実感した経験であると、ジーニアスと呼ばれる人たちは述べている。特に、子ども時代は自然の世界を強い喚起力を持って感じ、次々と変化する動的な関係によって自然と常につながっている感覚を知性ではなく、直観として理解するようである。

生きるための力とは、たとえば養魚が小さいのはなぜか、どうして野菜の収穫が少なかったのかなどを食卓で話し合うことにより、人とのコミュニケーション、考える力を養うことである。

 

そして、季節によって起こった色んな変化や出来事がここにはないのだ、求めるなら自分で動くしかない。なんとおかしな話だろうか。

と思いながら、やはり電車はありがたいと思い、帰路につく。

よくわからないが、「DSP」という広告ネットワークを仕事で扱うことになった。帰りに関連の書籍を買う、電車で読む。新しいことを始める時、かすかに自分の心が浮き立つ。

しかしふと空を見上げれど何もないので、週末は誰かと房総半島にでも行きたい気分です。