東京から高知、東南アジアに至るまでの話〜プロローグ 東京で就職して退職。そして高知へ〜
2014年11月、東京の会社を退職。
ふと気がつくと、僕は高知県の洞窟を登り、出口の光を見上げていた。
(ありんど高知しおちゃんありがとう!)
「ん?東京で就職したのがどうして僕は高知に?」
と過去の自分が問いかけてくるが、すぐに高知の友人からのLINEメッセージが問いをかき消していく。
「なり、今日は月が綺麗だよ」
映る水面は、海か田んぼなのか。どちらかわからないけれど、とても美しい。
今日は流星群が綺麗だと言われたらすぐ上を見ればその気持ちがわかる。
今、この文章を書いている葛飾区の小洒落たカフェではそれはもう、
わからなくなっていたのでした。
思い出せるのは、2014年4月に某野菜宅配の会社に就職し、
東南アジアでの海外展開をプレゼンした当時の社長はいなくなっており、
それでも努力して就職できたのだから、と希望を持たねばとあくせく働いてはミスをするというどうしようもない新入社員の自分でした。
その頃の僕は大量の苦手な仕事をミスしまいと力み、ミスり、
自信をなくしては立ち直る間もなく、救いのない毎日に埋もれていたのでした。
そんな毎日が続くはずもなく、ふと自分がいない方が組織円滑じゃないかと思ってしまいまして、
「すみません、退職します。」と逃げ出して、
「次はどうするんだ」と言われ、何かを言わなきゃいけないという思いで
「高知県に移住します」
今でも、なんで「高知県」というワードが出てきたのかはわかりません(笑)
持っているイメージは、なんだかご飯が美味しそうで、田舎だから生活費が安いかも?ぐらい。見る人によってはまるでふざけた動機です。(よらずともナメきっている!)
しかし、言ってしまった以上、とりあえず行ってみようということで
2014年12月、初めて(!)高知県に来たのでした。
そして、その直感が後に僕のキャリアにとてつもない影響を及ぼすことになるとは。
当たり前ですが、人生やってみないとわからないものです!!
(いや、あの・・・ほんと当時ご迷惑かけた方々、ごめんなさいでした)
マレーシアで自立経営を目指す児童養護施設での出会い
大学1年生の時、NPO法人CFFという団体のツアーでマレーシアのコタキナバルに行った時のことです。そこは、循環型農業で自立経営を目指す「子どもの家」というところでした。
母子家庭支援施設で10歳まで育った僕は、子供ながらに「援助されて生きている」という感覚から逃れられずに、なんとなく負い目を感じながら早く自立したいと思っていました。ゆえに、とても共感したのです。
同時に、唯一日本で頼れる人である母親がいなかったら・・・と思うと、そりゃあ法を犯すのもやぶさかではなく、人も信じられず、社会なんてクソ食らえだ!と叫び歩いていたことでしょう。ストリートチルドレンを発生させる環境は、社会を破綻させる最もシンプルな方法だと思うのです。
その時から、僕は「生まれた場所に左右されず、望む未来を実現できる選択肢が要る。それがご飯を美味しくするポイントだ」と思い至るわけですが、
まんま似たようなことを言ってくれる会社、大人が高知県にいるとは思い至るわけがなかったのでした。
高知県に来て、友人のパントマイムのイベントスタッフを成り行きで手伝い、
そのスタッフ仲間の紹介で高知の農業ベンチャーに入社し、肌で感じたこと。それは
高知県と東南アジアは本質的に同じ問題を抱えている!?
ちょっと運命感じちゃいました。
続きは次回。
「高知県と東南アジアの共通点こそが農業ベンチャーの面白さ!?(超仮)」にて。
↓*日本国内です。